2008年10月29日

<高橋尚子引退>Qちゃんスマイル、最後の最後で涙

高橋尚子が引退会見「完全燃焼できた。さわやかな気持ち」
高橋尚子引退、すでに極秘帰国28日会見

<高橋尚子引退>Qちゃんスマイル、最後の最後で涙10月28日21時11分配信 毎日新聞

 いろいろなことが台風のごとく過ぎ去って、今はさわやかな風が吹いている心境。限界に挑戦できて、陸上人生に悔いはない−−。日本女子陸上界初の五輪金メダルを獲得してから8年。00年シドニー五輪女子マラソン金メダリストの高橋尚子選手(36)が28日、現役引退を表明。東京都内のホテルで開いた約50分間の会見で、自身の競技生活を振り返った。【来住哲司】

 会見の冒頭で高橋選手は「本日をもちまして現役引退を決意しました」と、引退を宣言。理由として自らの体力的な衰えを「『プロ高橋』として、堂々と皆さんの前に出せる走りができなくなった」と表現した。「最初から(優勝が)無理だと分かっているなら、退いた方がいい」とも。高橋選手の「トップアスリート」としてのこだわりが、最終的に競技人生に幕を下ろす決断につながった。

 ただ、8月下旬には代理人に引退の気持ちを打ち明け、8、9月は寝られない日が続いた中で練習し、悩んだという。今月10日に所属先のファイテンの平田好宏社長(55)に「『環境をつくってくれたのに走れなくて申し訳ない』と伝えた時は涙が出た」と打ち明けた。

 05年5月、10年間指導を受けてきた小出義雄・佐倉アスリート倶楽部代表(69)の元を離れ、専属スタッフと「チームQ」を結成。04年アテネ五輪出場を逃した雪辱を果たすべく、今夏の北京五輪に照準を絞って調整を積んだが、代表選考会の名古屋国際(3月)では27位と「惨敗」に終わった。その浮き沈みをすべて踏まえて、自身の競技人生を「完全燃焼」と言い切った。

 会見の最後には「ファンの皆さんが私を支えてくれ、走った後は『頑張ったね』と声をかけてくれた。皆様に『ありがとうございました』、そして『これからも頑張ってください』とエールを送りたい」。多くのファンに愛された「Qちゃんスマイル」に、最後の最後で涙が光った。

 ◇「尚子ロード」の徳之島からも「本当にお疲れ様」

 高橋選手はほぼ毎年、鹿児島県徳之島で合宿し、練習に使った道路は「尚子ロード」と呼ばれている。

 地元、天城町の宮田益明・観光協会長(61)は、28日午前8時半、関係者から引退の一報を受けたという。

 宮田さんは定宿の「ホテルサンセットリゾート」(天城町)の社長として合宿を支援してきた。「来年の名古屋国際の前に合宿をしたい」と打診を受け、その際には町民総出のセレモニーを企画していたという。

 宮田さんは「今後も陸上に携わって、自分を超える選手を育ててほしい。本当にお疲れ様。いつも笑顔で気さくだったが、小出義雄監督から独立後は、競技だけでなく経営や人間関係など1人で責任を持ち、心の負担が大きかったんだろう」とねぎらった。

<高橋尚子引退>父良明さん「長い間、とてもよく頑張った」 ねぎらいや今後への期待の声相次ぐ10月28日21時48分配信 毎日新聞

 28日に現役引退を表明した高橋尚子の関係者からは、ねぎらいや今後への期待の声が寄せられた。

 ▽高橋選手の父良明さん 長い間、とてもよく頑張った。「お疲れ様でした」と言いました。いずれはこういう日が来ると思っていた。しかし尚子の人生は半分もたっていない。これからのことは、じっくりと考え、そしてゆっくりと人生を歩んでいってほしい。

 ▽84年ロサンゼルス五輪女子マラソン代表でスポーツライターの増田明美さん 高橋さんは女子マラソン界に風穴を開けた人。シドニーでは強さだけでなく、楽しんで走る姿も披露してファンを引きつけた。責任感が強い人だけに、レース直前の出場断念や引退の決断は苦しかったと思う。今後も違う形で、人々に幸せを与えるオーラを生かしてほしい。

 ▽日本陸上競技連盟・沢木啓祐専務理事 バンコク・アジア大会でのセンセーショナルな国際デビューには驚いた。その後は日本の女子マラソンの最盛期を引っ張ってくれた。まだ続けられるという期待も持っていたが、時の流れも感じる。

最終更新:10月28日21時48分

高橋尚子引退 女子マラソンの歴史動かす 存在感は薄れず10月28日21時41分配信 毎日新聞

 女子マラソン界の歴史を大きく動かしたランナーが、現役生活に終止符を打った。28日、引退表明した高橋尚子。

 マラソンで通算11戦7勝(練習で出た小規模レースを除く)。98年バンコク・アジア大会では当時の日本最高記録を4分1秒も更新。シドニー五輪では日本の陸上に戦後初の金メダルをもたらし、翌年には世界の女子で初めて2時間20分の壁を破った。

 高橋自身も引退会見で「日本人にもできると証明でき(レベル向上の)皮切りになれたのは大きかったかなと思う」と語ったように、その功績は計り知れない。その後、野口みずき(シスメックス)がアテネ五輪を制し、渋井陽子(三井住友海上)と野口が日本記録を更新するなどの活況も、高橋が先駆けとなったからこそだ。

 標高3000メートルを超える高地での練習に挑むなど、前例のない新境地も切り開いた。厳しい練習にも「走ることが好き」という気持ちで前向きに取り組んだ。そうした姿勢が、大学まで目立たなかった存在を開花させた。

 05年に10年間指導を受けた小出義雄氏から独立し、専属スタッフを雇う責任の重い立場を選んだ。だが、相次ぐけがや体調不良にも悩み、なかなか満足な走りができなかった。快走の再現を期待する周囲から見れば、残念でもあった。

 それでも自分の納得するスタイルを貫き走り続けたのも、意欲に満ちた高橋だからできたこと。その高橋が「限界を感じた」と言うのだから、相当に悩み苦しんだ末の決断だったに違いない。

 走ることに速さだけを求めず、自身の生き方を表現しようと努めた高橋には、走る姿や語る言葉が人々の共感を呼ぶ、独特の力があった。第一線を離れても、その価値や存在感が薄れることはない。今後は違う立場から、その力を発揮してほしい。【石井朗生】




posted by エリコ at 03:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | マラソン
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