2010年02月27日

<五輪フィギュア>真央、14年ソチへ意欲、真央“悔しい銀” 涙を拭いて4年後へ

<五輪フィギュア>真央、14年ソチへ意欲 

バンクーバー五輪のフィギュアスケート女子で銀メダルを獲得した浅田真央(中京大)は25日(日本時間26日)、テレビ各局のインタビューで「素晴らしい舞台に出たことはいい経験になった。もう一度戻ってきたい」などと語り、14年ソチ五輪への意欲を示した。(毎日新聞)


真央“悔しい銀” 涙を拭いて4年後へ
2月26日22時5分配信 産経新聞

 力強い「鐘」の音には負けたくなかった。浅田は怒りの表情を作りだし、ときに悲しげに、ときにはかなげに、力いっぱい舞い上がって氷をけり続けた。銀メダル。「メダルはうれしいですが、演技には納得していません」。うれしいような、悲しいような、困った顔で涙を浮かべた。負けず嫌いが顔をのぞかせた。

 5歳でスケート靴を履いた。2歳上の姉、舞さん(21)と一緒にリンクへ通った。舞さんは「2人で『わたしの方がうまいよ』と言い合ってましたね」と笑う。駆け出し時代は年齢差もあり、姉に軍配があがった。それでも浅田は与えられた課題を必死にクリアしては喜んでいた。

 浅田の小中時代を指導した山田満知子コーチは「すべてを持っている子」と、褒めたたえた。小6で出場した全日本選手権で3連続3回転ジャンプを跳んだ。関係者は大騒ぎ。「天才」の称号がついて回った。気が付けば、舞さんを簡単に置いていってしまった。

 待望の五輪シーズン。皮肉にも人生最大のスランプが浅田を襲った。昨年10月のグランプリ(GP)シリーズ、フランス杯で2位、続くロシア杯では自身最悪の5位に沈んだ。武器のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)が安定せず、得点が伸ばせなかった。

 「(3回転半を)百発百中にします。プログラムは変えません。練習してきたプログラムをまだ完璧(かんぺき)に滑っていないので」。ここでも自分自身に対して負けず嫌いだった。途中であきらめる自分は想像できないし、許せなかった。

 五輪行きのチケットを手にするには、昨年末の全日本選手権で勝つ以外、道はなくなっていた。毎日朝から晩まで、愛知・中京大にこもった。多い日は100本超のジャンプを跳んだ。顔を見るのは毎日同じコーチ、スタッフばかり。19歳の息は詰まっていた。

 救ったのは家族とスケートだった。

 昨年12月初め、浅田は舞さんの前で泣いた。「もう跳べない」と、だだっ子のように大粒の涙を流した。中京大の更衣室。舞さんも選手だ。浅田の肩の重さが痛いほど伝わってきた。

 舞さんは「これまで何万回も跳んできて、一日で跳べなくなるなんて、ないよね」と励ました。一緒に中華料理を食べ、買い物に行った。浅田が誘い、赤いひも状のネックレスをおそろいで買った。浅田はこのネックレスを付けて全日本を制し、五輪出場を決めた。

 全日本に来られなかったタラソワ・コーチからもメールが届いた。「わたしは真央の力を知っています。真央が真央でいられることを祈っています」。浅田は「すごくうれしかった」とすぐに返信した。

 中京大のリンクで、練習にやってくる子供たちと一緒に滑ることもした。浅田は笑顔で氷上を舞った。ジャンプもスピンも新しいことに挑戦することが大好きで、氷の上にいるだけで楽しかった時代があった。浅田の関係者は「あの時間で滑る楽しさを思いだしたのかもしれない」と笑う。

 4年前。トリノ五輪は年齢制限で出場がかなわなかった。誕生日が87日規定に足りなかった。最初からわかっていた。「バンクーバーに出る」と誓って練習を積んでいた。母の匡子さん(47)に「何で早く生んでくれなかったの」と冗談は言っても、「トリノに出ていたらなぁ」と想像したことは一度もない。

 初めての大舞台はほろ苦さが残った。誰もが魅了される笑顔は弾けなかった。「五輪は五輪」だという。笑顔も金メダルも世界選手権では取り戻せない。「また出たい」−。4年後は23歳。忘れものを取りに必ず戻ってくる。(榊輝朗)



posted by エリコ at 07:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | オリンピック
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