2010年06月18日

俊輔が切り札!「あの人ならやってくれる」闘莉王も期待…19日オランダ戦

俊輔が切り札!「あの人ならやってくれる」闘莉王も期待…19日オランダ戦6月18日8時1分配信 スポーツ報知

 日本代表DF田中マルクス闘莉王(29)=名古屋=が19日の1次リーグ第2戦・オランダ戦でMF中村俊輔(31)=横浜M=の復活を熱望した。14日のカメルーン戦で出場機会がなかった司令塔の逆襲を予告した闘将は、DF中沢佑二(32)との”恋人タッグ”でオレンジ軍団完封を誓った。

 決勝トーナメント進出に向けた大事な分岐点となるオランダ戦。闘将・闘莉王は「背番号10」の復活を予告した。

 「あの人なら、やってくれる。そういう熱いものを秘めているとオレは感じている」

 17日の非公開練習を終えた闘莉王は語った。あの人とは俊輔だ。ウオーミングアップで常に併走する闘将は、開幕戦のカメルーン戦では出場機会はなかったエースの心に秘めた反発力をひしひしと感じていた。

 0―3で敗れた昨年9月のオランダ戦では攻撃のタクトを振り、70分間中盤を支配した俊輔は、この日の居残り練習ではGK楢崎相手に鋭いシュートを連発。近い関係者には「調子は上がってきた。いつでも準備はできている」と明るい様子で語っており、ベンチを温める無念よりも逆襲にかける気合に満ちている。

 カメルーン戦前に君が代斉唱時に選手とベンチが肩を組み、一体感を高めることを提案した闘莉王は「すべての面で相手が上かもしれない。僕らは仲間を信じ合う気持ち。助け合う気持ちが切り札だと思う」と断言。岡田監督もカメルーン戦からのメンバー変更方針を打ち出しており、劣勢必至の優勝候補との対決で俊輔の完全復活を呼びかけた。

 一方、DFラインでも固い絆(きずな)を感じる。「佑二は落ち着いてやるタイプ。僕は気持ちを前に出してプレーする。お互いがバランスが非常に取れる2人。恋人にすればよかった」。07年2月から鉄壁のコンビを組み続けた中沢との連係はカメルーンを封殺し、もはや恋人の域に達した。「また自分たちは下手くそなりの戦い方ができると思う」。世界屈指の技術を誇るオレンジ軍団に仲間を思う魂と泥臭さで対抗する。

 ◆昨年9月のオランダ戦の俊輔 0―0の後半18分に、約25メートルのFKをゴール右隅に放った。惜しくも相手GKの好セーブにあったが、敵地のサポーターをどよめかせた。また、前半3分にFW岡崎に得点にはならなかったが決定的なパスを送るなど、広い視野で司令塔としての存在感を出していた。
田中マルクス闘莉王(たなか マルクス トゥーリオ、1981年4月24日 - )は、日本のプロサッカー選手。ブラジルのサンパウロ州、パルメイラ・ド・オエスチ出身。Jリーグ・名古屋グランパスエイト所属。主なポジションはディフェンダー(センターバック)。

日系人の父親と、イタリア系ブラジル人の母親を持ち、2003年に日本国籍を取得した[1]。日本に帰化するまでの旧名は、マルクス・トゥーリオ・リュージ・ムルザニ・タナカ(Marcus Túlio Lyuji Murzani Tanaka)。

父方の祖父は広島県出身、父方の祖母は富山県出身で共にブラジルに渡った。父親は日系ブラジル人二世で、自身は日系三世(2003年に日本へ帰化)に当たる。母親はイタリア系ブラジル人。16歳の時、千葉県の渋谷幕張高校がブラジルで行っていたスポーツ留学生のテストに合格したことがきっかけで日本に留学。トップ下だったが、監督の宗像マルコス望の意向で現在のポジションであるDFへコンバートする。2001年高校卒業後、広島出身の祖父の勧めでサンフレッチェ広島に入団した。

2002年、シーズンにサンフレッチェがJ2に降格。1年での昇格を目指すため、新たに実力のある外国籍選手を獲得することとなり、外国籍選手の保有枠(1チームにA登録選手が3人まで)のため、2003年、J2の水戸ホーリーホックにレンタル移籍で加入。同年10月、日本への帰化をきっかけに、登録名を「トゥーリオ」から「闘莉王」に変更した。

2004年、広島からJ1・浦和レッズに完全移籍し、U-23日本代表に選出され[6]、アテネオリンピック本大会にも出場。

2006年、オシムジャパン体制でA代表に初選出され、8月9日のキリンチャレンジカップ・対トリニダード・トバゴ戦で初出場、11月15日のアジアカップ予選・対サウジアラビア戦で代表初得点を挙げる[7]。またチームではリーグ優勝を果たし、Jリーグ最優秀選手を受賞した。

2007年にはAFCチャンピオンズリーグ優勝に貢献し、2008年にはDFながらチーム得点王となる11得点を挙げるなど、以降も攻守にわたって浦和の軸として活躍。Jリーグベストイレブンには2004年から2009年まで、6年連続で選出された。一方で、浦和に誘ってくれた恩師であるギド・ブッフバルト監督の退任以降は、ホルガー・オジェック、フォルカー・フィンケら後任監督と相次いで衝突[8]。

2009年オフ、浦和との契約延長交渉が合意に至らず、契約満了をもって浦和を退団[9]。2010年より、名古屋グランパスに完全移籍した。

代表においては、2008年からの2010 FIFAワールドカップアジア最終予選8試合に全試合フル出場し、日本の本大会出場に貢献[10]。本大会への代表にも選出された。

しかし、本大会直前に行われた強化試合では、2010年5月30日のイングランド戦では得点を決めたもののクリアミスによるオウンゴールを献上した[11]。さらに、6月4日に行われたコートジボワール戦では2戦連続のオウンゴールを献上した上、ディディエ・ドログバとの接触プレーでファウルを犯し、ドログバは右腕を骨折した[12]。

評価・プレースタイル

最大の武器は長身と強靭な体格を生かした空中戦の強さである。クロスを放り込まれても高さで対処でき、味方陣内深くの最終局面において体を張って相手選手を止める。 試合では常に声を張り上げ、リーダーシップを発揮している[要出典]。勝利への執念や責任、自負を顕わにする態度も突出している[要出典]。

最終ラインで相手FWをマークするのが得意なストッパーでありながら攻撃参加の意識が極めて高く、ロングフィード、最終ラインからのドリブル突破による攻撃参加、ペナルティエリア外から強烈なミドルシュートを叩き込むなど、DFとしては並外れた決定力も相まって超攻撃的なセンターバックとしての評価を確固たるものにしている。PKのキッカーを自ら申し出ることもしばしばある。 また高さを生かしヘディングシュートを決めるなどセットプレーの際には貴重な得点源にもなる。最近では、DFながらポストプレーの質も高く、セットプレーやオーバーラップ時には、起点となり、味方のゴールを演出することがある。 2008年シーズン途中に発足したエンゲルス体制下の浦和レッズではテクニックと得点力を買われ、 本来のポジションであるセンターバックの一列前の位置にあたるボランチ、更にはトップ下でも起用されるなど、ユーティリティー性を発揮している。トップ下で起用された試合では本職のストライカーさながらのプレーを披露し、ハットトリックまでも達成した。

人物

敬虔なクリスチャン(カトリック)である。
サッカー選手以外ではうるし職人になりたいといっている。
志村けんの大ファンである。
J2水戸時代の2003年や浦和の2008年に2桁得点を挙げ、2003年と2005年にはチーム内得点王となっている。
ネイティブと遜色ないほどの日本語を話す。
ドログバが骨折したことで、日本協会を通しドログバへ謝罪の手紙を送っている。
骨折したドログバはコートジボワールであるが、ブラジル代表と同じグループリーグであることもあり、母国ブラジルから注目を集め、メディアが取材をしにきた。

エピソード

2008年10月下旬に、ブラジル移民100周年を記念し、ブラジル音楽より本人が選曲したコンピレーションアルバム「TRIP IN BRAZIL」[13]が発売された。そのCDには、本人によるポルトガル語のラップが入っている。
2008年、西武ドームで行われた日本シリーズ第3戦では、浦和レッズと同じ埼玉に本拠地を置く埼玉西武ライオンズの応援として始球式を務めた。

田中マルクス闘莉王 - Wikipedia

トゥーリオ「鉄壁」
2. 田中マルクス闘莉王
3. 出演者別:田中マルクス闘莉王- TVトピック検索
4. SANSPO.COM
5. 闘莉王/日本代表 - 2010年南アフリカW杯 ...


posted by エリコ at 17:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー・岡田ジャパン
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