2010年06月30日

【サッカーW杯】誰も責めやしない悲運の男・駒野

【サッカーW杯】誰も責めやしない悲運の男・駒野
2010年6月30日(水)9時50分配信 ゆかしメディア

 サッカーW杯の決勝トーナメントで、日本代表は29日、パラグアイ代表を相手に善戦したものの、PK(5−3)で敗れ日本史上初のベスト8進出はならなかった。そのPKを外したDF駒野友一選手が、検索キーワードで1位になるなど国民の関心が高くなっている。ファンは悲運の男の4年後の捲土重来を期待していることだろう。

 日本はMF松井大輔選手の「ドライブシュート」、MF本田圭佑選手の「カミソリシュート」など惜しい場面や、GK川島永嗣選手の好セーブなどで応戦。延長戦でも勝負がつかずに
PK戦へ。3人目の駒野選手が蹴ったPKは、無情にもバーに弾かれた。日本代表の夢は断たれてしまった。

 30日未明のグーグルの検索ワード急上昇ランキング1位は「駒野」。ユーザーは苗字だけで検索している。「友一」という名前を知らなかったのか、あまりの悔しさに苗字しか打つ余裕がなかったのかは不明。とにかく、駒野という選手のことが気になって仕方がなかったということだろう。

 2003年8月、左膝前十字じん帯断裂し手術。その1週間後に、謎の腹痛に。エコノミークラス症候群と診断され緊急手術へ。一命を取り留めた。だが、駒野選手は自身の命よりも、リハビリが遅れたことの方を悔しがっていたのだという。だが、翌2004年には、アテネ五輪のケガが基で視野が失われていき一時は失明の危機に陥ったが、それも手術で乗り越えた。まさに不屈の男だ。

 試合後は無言でミックスゾーンを通り過ぎた駒野選手。悔しさと申し訳なさが入り混じっているのだろうか。日本代表でも屈指の運動量とクロスを誇るこのDFがいなければ1次リーグで敗退していた可能性もある。

 現在28歳。気持ちの整理がつけば本人は4年後のリベンジを考えるかもしれない。次期代表に選出される可能性は現段階ではわからないが、日本のファンは4年後の駒野選手の雄姿を期待していることだろう。泣くな!駒野。

駒野友一(こまの ゆういち、1981年7月25日 - )は、和歌山県海南市出身のサッカー選手。ジュビロ磐田所属。ポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー。広島県立吉田高等学校卒業。

小学生のころはFWで中学2年生のときにアウトサイドに転向。中学3年生時に地元初芝橋本高等学校、ガンバ大阪ユース、ジェフユナイテッド市原ユース、サンフレッチェ広島ユースからオファーがあった。そのうち、初芝橋本高は練習に参加したが私立高校のため、G大阪ユースは地元和歌山から通いになるため、どちらも経済的理由から断念。市原ユースの練習に参加したが、体調不良からセレクションに不合格、もう一度テストに来るよう誘われたが断りを入れ、1997年広島ユースへ入団[2]した。ちなみに、広島ユースに入る直前に父親を亡くしている[3]。ユース時代からウイングバックとして活躍し、高校3年次には同級生の森崎和幸・浩司兄弟とともに2種登録選手になった。

2000年、サンフレッチェ広島とプロ契約[4]する。翌2001年、ヴァレリー・ニポムニシに見出され、右SBとして沢田謙太郎からレギュラーを奪う。その後も安定したプレーぶりを見せ、その年の2ndステージ3位になる原動力となった。それ以降も右のアウトサイドのレギュラーとして活躍した。

2003年8月16日対横浜FC戦で左膝前十字靭帯を損傷。手術後の入院中に突然エコノミークラス症候群にかかり生命の危機に陥った[5]。懸命なリハビリを続け、2004年4月29日ナビスコカップ対横浜F・マリノス戦で復帰した。駒野不在の間、広島の右サイドでレギュラーを掴み取った選手は誰もおらず、チームは駒野の存在感の大きさを実感することとなる。

2004年8月18日、アテネ五輪ガーナ戦で左鎖骨を骨折、同年9月21日ブドウ膜炎をおこし失明の危機まであったが軽症で済んだ[5]。2005年には本調子を取り戻し佐藤寿人とのコンビでチャンスを量産、右SBながら9アシストという数字を残した。

2008年、広島のJ2降格を機にジュビロ磐田へ移籍したが、チームは低迷し2年続けてJ1残留争いを経験。

2009年、やべっちFCにてゲスト出演していた中山雅史に駒吉と呼ばれ、さらには駒野本人はいじられキャラだという事が判明した。磐田での背番号は前年の25から広島時代と同じ5に変わり、ポジションがMFからDF(サイドバック)に変わった。

代表
年代別代表時代から右SBだけではなく左SBとしても活躍、2004年にアテネオリンピックサッカー日本代表として招集される。

A代表には、2005年東アジア選手権、怪我の三浦淳宏に代わり初招集。その後も招集され続け、2006年ドイツW杯本大会のメンバーに選ばれた(追加招集された茂庭照幸と共に、「アテネ世代」からの数少ない選出メンバーとなる)。レギュラーであった加地亮のバックアップと両サイドをこなせるユーティリティ性を買われての選出だったが、加地の負傷により本大会初戦のオーストラリア戦に先発メンバーに起用される。試合では同点に追いつかれた直後、ペナルティエリア内で仕掛けた際に倒されあわや追加点となるチャンス(後にPKに値するプレイだったとFIFAの審判委員会が誤審を認めた。)も作った。加地が負傷から復帰した第二戦以降は控えに回った。

その後イビチャ・オシムが日本代表監督になってからも左サイドバックおよびセンターバックのポジションで継続して招集されたが、オシムが倒れたのちに就任した岡田武史監督の元では内田篤人や長友佑都ら若手選手の台頭によって徐々に出場機会が減っていた。2010年5月10日に2010 FIFAワールドカップのメンバーに選出された。W杯直前に行われた強化試合コートジボワール戦でスタメン出場をしていた今野泰幸が負傷したためその後はレギュラーに選ばれ本大会のグループリーグ三試合では右サイドバックとしてスタメン出場を果たし日本の決勝トーナメント進出に貢献した。

決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦に先発出場し、相手陣内深いエリアまで上がり再三クロスを上げるなどチャンスを演出、またパラグアイに押し込まれた時間帯には体を張った守備でピンチの芽を摘むなど豊富な運動量でチームの完封に貢献した。しかしながら、PK戦で3人目のキッカーを任されるがシュートをバーに当ててしまい、後に続く遠藤保仁、長谷部誠、本田圭佑ら成功したが、GKの川島永嗣が1本も止められず、史上初のベスト8進出は至らなかった。

評価・プレースタイル
利き足である右足から繰り出せるクロス精度はJリーグ屈指。特にFWの動きに合わせた軌道を研究して練習した、と自身で述べている鋭く曲がり落ちるアーリークロスは大きな武器で、週刊サッカーダイジェストでの「Jリーガー108選手が選ぶベストプレイヤー」という企画内において「クロスボール部門」で第1位に輝いている。また、運動量は日本人選手屈指であり、試合中に何度も上下運動を激しく繰り返す強靭なスタミナも持ち合わせている。ドリブル突破も魅力であり、縦への突破だけでなく中へ切りこんでの強烈なシュートも放つ。さらに、スピードや攻守の切り替えの速さにも定評があり、オシム元日本代表監督から「日本で一番スピードのある選手なのが駒野」と言われる程である。サイドバックならば左右問わずプレーできるのも強み。

駒野友一 - Wikipedia

駒野 友一 | ジュビロ磐田 Jubilo IWATA


posted by エリコ at 16:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー・岡田ジャパン
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